2024年3月。3月に入ったばかりなのに外はやけに暖かい。だが教室内はさすがに暖房をつけないと肌寒い。
その年に卒業していった第2期生、フユト・ナツキ・コハルの受験がだんだん過去になっていく頃にその子とは初めてあったんだ。レオン。今年の受験生のなかで最後に入塾した子だった。
レオンのお母さんと入塾についての説明面談をしたのが初めて会う日の2日前、その日は冷たい雨の日。聞けば通塾は初めてではなく、個別指導で受験用のカリキュラムを組んでいた。しかしなかなかペースが上がらず、また個別特有の「周りが見えない、自分の答えしか目に入らないのが不安」というので集団授業のうちを知人に紹介してもらったらしい。そしてその子にはしっかりと志望校もあった。彼のお姉ちゃんが通っている私立中学校。しかし、だ。
「6年生になって塾を変えるというのはリスクもあります。いやリスクの方が大きい場合もありますがそこはご承知おきでしょうか?」。
その日初めて会ったレオンのお母さんから彼の状況を確認したうえでそう伝えた。基本的に受験学年になっての転塾というのはリスクを伴う。それまで使っていたテキストや学習スタイル、通塾経路や時間割また教室の風景も全て変わるわけだから。6年になってそれらをもう一度組み立て直さなければいけなくなるのは労力が大きい。ましてこちらにもずっと通ってくれている生徒たちもいる。授業進度は遅らせることはできない。いや、本音はもっと「まき」でいきたいくらいなのに。
「こちらの授業進度は変えられません。それを飲み込んでいただけるならまずは体験授業でお預かりします」
「わかりました。授業を受けてみて、そしてもう一度本人とも話してみたいと思います」
そんなやりとりをした翌々日、彼とは初めて会ったんだ。カリキュラムは彼の個別指導よりもずいぶんこちらが進んでいるようだった。それにショックを受けないかだけが心配ではあった。
「はじめまして。今日の体験授業はよろしくね」
「楽しみにしてました。こちらこそよろしくお願いします」
ああ。きっとこの子は大人の会話の中で育っているんだろうな。短いやり取りでそう思った。しっかりした子だな。
―その日の授業が終わった。レオンにしてみると見くるめく間に終わったのかもしれない。
【piu mosso】「今までより早く」―
レオンにしてみるとそんな感じだったかもしれない。カチャカチャとペンケースに筆記具を詰め込む彼を見ながらそんな音楽用語を思い出す。浮かない顔、してる。それはそうだ。他の子が出来ているのに自分だけ知らない、初めての解法だらけなんだから。「今の個別指導の塾に残ります」そう言うのかな。もしそれでも無理はない。
その日はお迎えに来たお母さんのところまで彼を引率し、軽く授業中の様子などを話して終わった。日中暖かくても3月初旬の夜風は冷たい。見送る彼の背中が少し小さく見えた。
でもね、彼にはあったんだ。わからなくても「何とか答えを出そう、創ろうとする姿勢」が。一所懸命に手を動かす気持ちが。その気持ちさえあればもっともっと伸びると思うよ。いつでも、どこででも。
「がんばれ」。そう思いながら彼の背中を見送った。
予想に反した返答の電話があったのは翌日の昼過ぎだった。寒風の中聞き取りづらかったけど、確かにレオンのお母さんはこう言ったんだ。
「本人、どうしてもそちらで挑戦してみたいそうなんです。よろしくお願いします」
この電話から彼の【piu mosso】な日々が始まったんだ。